マダム・ボランジェ
80年来の、シャンパーニュ・ボランジェの礎
ボランジェ夫妻
勇気と強固な意志
彼女が事業を引き継いだ時、ヨーロッパ全土で戦争が激化していました。ブドウ畑の手入れやシャンパーニュの製造に必要な設備や人手が不足していた占領下の日々は困難を極めましたが、マダム・ボランジェはこの局面を乗り切りました。ファミリーのブドウ畑を自転車で回り、勇気と強い意志をもって困難に立ち向かったのです。占領が終わると、「リリーおばさん」は家族を中心に事業の発展を続けました。
現代化と伝統
30年間にわたり、マダム・ボランジェは近代的な農法とシャンパーニュに伝統的に伝わる効果的な手法を組み合わせました。特にオーク樽での醸造にこだわり、「たとえ古めかしいように見えても、伝統的な手法こそ重要なのです。私のワインの品質がその証拠です」と語っています。 1967年、彼女は自ら開発したシャンパーニュ「R.D.(Récemment Dégorgé =最近デゴルジュマン[澱引き]されたもの)」の販売を開始しました。この革新的なシャンパーニュは、澱の上で長期間熟成されたもので、発売時から大成功を収めました。 また、この地域では奇跡的なことに、フィロキセラの被害を免れたブドウ畑が2区画残っており、1969年に「ヴィエイユ・ヴィーニュ・フランセーズ(古いフランスのブドウ樹)」の最初の生産を決定しました。
寛容さと繊細さ
「マダム・ジャック」は、親切で慈愛に満ちた女性として記憶されています。彼女は主要な顧客に洗練されたおもてなしを提供すると同時に、シャンパーニュ・ボランジェのために働くすべてのワイン醸造者やセラー職人のことも熟知していました。戦後、彼女はボランジェブランドを確立するためにアメリカへ渡りました。1951年10月25日、マダム・ボランジェはリベルテ号でニューヨークを目指しました。これはアメリカ全土を巡る壮大なツアーの始まりでした。彼女は精力的にジャーナリストや主要な人物と会い、ボランジェのシャンパーニュのテイスティングを開催し、シャンパーニュ地方について語り続けました。あらゆる場面で顧客を喜ばせ、その存在感をアメリカ人の心に刻みました。1961年にはシカゴの新聞「アメリカン」によって「フランスのファーストレディ」と呼ばれるほどでした。